ヨーク (City of York)
ローマ時代には、属州ブリタンニアの要塞エボラクム (Eboracum) であった. 「ヨーク」の名前の由来は「イチイの木」(yew trees) といわれている.
考古学的証拠から、中石器時代の紀元前8000年から7000年には今ヨークがある場所に人が定住していた痕跡があるが、それが永久的な定住だったのか不定期なものだったのかわかっていない. 古代ローマ帝国のブリタニア征服時より、一帯はローマ人にブリガンテスとパリジという名前で知られた種族に占領されていた. ブリガンテス族はすぐに隷属を受けたがのちより敵対的になった. 結果として、第9軍団ヒスパナがハンバーの北へ送り込まれた.
都市として創設されたのは紀元71年、第9軍団ヒスパナがブリガンテス族を征服し、とオウス川の交わる平地に軍事要塞カストラを建設した時であった. 要塞はのち石で再建され、総面積はで6,000人の兵士が暮らした. ローマ時代の要塞のほとんどは今ヨーク・ミンスターの基金管理下にあり、ヨーク・ミンスター内地下室の遺跡は原型の城壁を露わにしている.
ハドリアヌス、セプティミウス・セヴェルス、コンスタンティウス1世らローマ皇帝は全員、彼らの遠征の最中、ヨークで宮廷をかまえた. 滞在期間、セヴェルス帝はヨークをブリタニア・インフェリオル県の首都とするよう命じた. 彼はヨークにコロニアか都市の特権を与えようとしたのだった. コンスタンティウス1世は滞在時にヨークで亡くなり、彼の子コンスタンティヌス1世は要塞内の軍隊を前に即位を宣言した.
7世紀のヨークは、アングロサクソン人のノーサンブリア王エドウィンの主要都市だった. 最初のミンスター教会は、627年にエドウィン王が洗礼を受けた時期に建てられた. エドウィンはこの小さな木造教会を石造りに再建させたが、彼は633年に敗死し、石造りのミンスター完成の義務は彼の後継者オズワルドへ引き継がれた.
866年、ノーサンブリアはヴァイキングが急襲しヨークを獲得した際、内戦のまっただ中にいた. ヴァイキング支配下で都市は主要川港へと成長し、北欧へ広がるヴァイキングの拡張する貿易航路の一部となった. ヴァイキングたちは、新たに獲得したこの街を「ヨルヴィーク」と呼んだ. 独立の最後の支配者エリク・ブラッダクセは965年にヨークからエドレッド王より駆逐され、イングランドの再統合は完成した.
1069年、ヨークはウィリアム征服王によって敵とみなされ破壊された. 古いアングロサクソン期のヨーク・ミンスターはこの時の火災で致命的な損傷を受け、ノルマン人はまっさらになった場所に新たなミンスター建設を決めた. 1080年頃の大司教トーマス1世の時代に大聖堂建設が始まり、これが現在のミンスターである. ヨークは再び繁栄し始め、特に羊毛で有益な港と商業中心地となった. ヘンリー1世はヨークへ最初の特権を授け、イングランド及びヨーロッパでの貿易権を認証した.
1190年、ヨークはユダヤ人居住地への悪名高いポグロムが行なわれた地だった. ユダヤ人らは、市の防御施設の一つヨーク城のクリフォーズ・タワー内を聖地とみなした. 城を急襲する準備をする間、群衆は罠にかけたユダヤ人たちを数日間包囲した. ユダヤ人自身か迫害者の方か定かでないが、ただちに火が放たれ、150人のユダヤ人が死んだ.
都市はテューダー朝の間に下り坂を経験した. ヘンリー8世のもと、修道院解散で、教会主義と社会の忠心であった、ヨークの修道院は終わりを迎えた. ヘンリー8世はヨークにノース・カウンシルを創設し、エリザベス1世治下で重要性を増し、復興を遂げていった.
地図 - ヨーク (City of York)
地図
国 - イギリス
イギリスの国旗 |
イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという歴史的経緯に基づく4つのカントリー(「国」)が、同君連合型の単一主権国家を形成している. また、2020年1月31日まで欧州連合(略称:EU)に属していたが離脱した (ブレグジットを参照). イギリスは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、G7・G20に参加する先進国である. また、経済協力開発機構、北大西洋条約機構、欧州評議会の原加盟国である.
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
---|---|---|---|
GBP | スターリング・ポンド (Pound sterling) | £ | 2 |